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函館に来てからの航空母艦・天城について


昭和23年8月19日、1基の浮き桟橋が曳航され函館・有川埠頭に到着した。帝国海軍の航空母艦「天城」である。



航空母艦「天城」は航空母艦飛龍の改良型の雲龍型航空母艦の2番艦として昭和17年10月1日に三菱重工業長崎造船所にて起工され、昭和18年9月25日に伊豆半島の天城山に因み「天城」と命名された。同じ天城という艦名を持つ艦としては3代目になる。そして同年10月15日に進水、翌19年8月竣工した。

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「航空母艦・天城」

同じ雲龍型としては3隻(雲龍・天城・葛城)が完成、3隻(笠置・阿蘇・生駒)が進水済みで未成のまま終戦、1隻(鞍馬)が計画のみとなった。

竣工後の昭和19年9月、雲龍と第一航空戦隊を編成し天城は旗艦となるものの、この頃には既に行動するための燃料や航空機が不足し、搭載部隊の第601航空隊の再建ができないまま、昭和20年1月に1945年(昭和20年)7月28日、呉港外三ツ子島沿岸にて爆撃を受け大破横転。そのまま終戦を迎える。

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戦後は昭和21年12月5日から浮揚作業が行われ、昭和22年7月31日に浮揚完了。その後解体されたが、船体の一部を利用し浮き桟橋として利用されることとなったのである。

この工事により空母時代には全長227.35m、幅22mあった天城の船体は、浮き桟橋となって全長119.92m、幅14.2mとなった。



一方、函館の運輸省鉄道総局五稜郭工機部では青函連絡船・曳船の修理をわずかながら行っていたが専門の連絡船修理施設が無く、船舶工機部実現には新たな修理用岸壁を建設する事が懸案事項だったようだ。

この件については北海道新聞と函館新聞が同じ昭和23年2月11日で記事を載せており、函館新聞は「岸壁代わりに空母 船舶工機部実現へ一歩」、北海道新聞は「連絡船修理場に元空母の登場」の見出しで、まとめて要約すれば、

連絡船運航の最大の悩みが船の専門の修理施設が無いことで、ちょっとした故障破損でも莫大な日数と労力を費やし輸送に混乱をきたしていたが、連絡船の修理場として廃艦となった航空母艦・駆逐艦各一隻を有川さん橋に回航し、修理用のコンクリート岸壁を新たに建設するよりも空母を修理用岸壁として利用すれば、それまでドックに依存あるいは沖で修理していた中小規模の修理を十分なスピードでの作業ができ、連絡船の運航はスムーズに、また大幅な経費削減になることと、駆逐艦の船体を防波堤として利用することに関して実地調査が行われるとあった。


「天城」はそれから5ヶ月後の昭和23年7月15日にサルベージ船の東興丸(600トン)に曳航され函館へ向かい呉を出港。日本海経由の4ノットというゆっくりとした航海で、途中うねりのために船体に亀裂を生じ秋田県船川港で補修されて予定より20日遅れの8月19日に函館港有川桟橋に到着した。

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「函館到着時の東興丸(左)と天城」(函館新聞 昭和23年8月20.21日の記事より)

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「函館到着時の東興丸(左)と天城」(北海道新聞 昭和23年8月22日の記事より)

この頃には駆逐艦を防波堤にする案は無くなり、「天城」を修理船用の桟橋として使用した後、翌年に全国では6隻目の軍艦防波堤として沈められ生涯を終える事になっていた。

しかし、状況は天城にとってさらに悪化する。






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「こんな私でも、平和日本建設のため、有川さん橋の付属品となる大志を抱いて来たのだが、来てみればやはり異郷の空、流れ者扱いされたれもかまってくれない何時になったら私を役立せてくれるのか私は巴港に来てから悲しい日ばかり送っている」






上は1ヶ月後の函館新聞 昭和23年9月23日「泣くな「天城」よ 御奉公は三、四年後に」の見出しで書かれた記事の冒頭。ちなみに巴港とは函館港の通称で、陸繋島の函館の形状を巴紋に見立てて呼ばれている。(函館市章も巴)

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上の写真は有川桟橋にて繋留されている天城。浮き桟橋に改造された船体の様子が分かる。

この頃、有川桟橋の五稜郭工機部・船舶職場を拡充するために天城の船体を改修して使用するつもりが経費・資材の問題で早急の改修は難しくなり放置状態で、改修に一年半か二年後、防波堤として沈めるのは三、四年後という事で、「折角御奉公を意気込んでいる天城に夜泣きさせるようなそっけない返事ばかり」と記事に書かれていた。


昭和23年11月20日の函館新聞には「元空母「天城」を第三岸壁に埋立」という見出しの記事が載っていた。

要約すれば、元々、有川桟橋に連絡船を修理できる岸壁が無かったので沖合に停泊している連絡船に小さな蒸気船を着けて修理を行っていたのを、(繋留されている場所に?)天城を埋め立てて、そこに連絡船を接岸させて修理を行うつもりだったようだ。

ただ、港湾計画の中止で北防波堤の工事も中止になったことで有川桟橋の第三岸壁(函館第五岸壁)を修理用の岸壁として天城を年内に据え付けてそこで連絡船の修理をできるようにするという事だった。

しかし残念ながら、函館船渠(現・函館どつく)の機能が回復したことで、昭和24年8月に浮き桟橋の天城は廃止され函館港での利用方法が模索されることになる。



北海道新聞 昭和24年11月28日の記事には、「浮倉庫か岸壁か 廃艦"天城"に二つの案」との見出しで、

函館海陸運輸作業会社社長四津庄三郎氏(四津庄次郎氏か)ほか数名をグループにする"海上倉庫"案と、さらに構内に接岸して近海就航船の荷役さん橋に、という二つの天城の船体の利用案があった。

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「係留中の天城と有川さん橋(右)」 (北海道新聞 昭和24年11月28日)



翌年の北海道新聞 昭和25年8月20日の記事には「活用に三案 元空母"天城" 函館港湾振興会 利用研究に本腰」の見出しで、

天城の利用を港湾施設充実の為に函館港湾振興会で本腰を入れて研究していて、その利用案が、

①予算関係で行き悩みになつている木造さん橋代用に西浜岸壁のつぎ足しにする
②第二ふ頭の岸壁に使用する
③旧さん橋若しくは郵船浜に機帆船および小型汽船の荷役用ふ頭にする。

の三案があり、実現性の問題から第三案の機帆船の荷役用ふ頭として郵船浜付近沖合に突出させる計画が最も有力視され近く細密な調査を行うこと。しかし第二ふ頭工事が今後1億9千万円程で完成する見通しから、(天城に費用を割くよりも)港湾施設費用を細大もらさずこれに充当することが得策だという見方もあることからさらなる研究が必要ということだったようだ。

しかし、結局利用方法が見つからず、昭和26年10月17日に屑鉄として天城は1056万8千円で金属鉱業会社に売却され解体、その会社では建築物の鉄筋として販売されたという。




・「天城」終焉の地の現在の様子

函館に到着した天城は売却されるまで有川桟橋の南東、現在の函館市浅野町に繋留されていました。

天城が繋留されていた場所はこの場所(グーグルマップへ飛びます)

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なぜ、この場所かと確定できたかというと、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で、天城が函館に到着した8日後の昭和23年8月27日に米軍機によって撮影された空中写真USA-M1152-48の右下に、天城と思われる船体が写っていました。


当時の空中写真と現在の空中写真を重ねあわせてみるとこのようになります。

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白い部分が昭和23年8月当時の陸地で、突き出ている所が有川桟橋。青函連絡船のうち貨物専用の岸壁として使われていました。

細長い長方形のが天城と思われる船体です。


↓更に拡大
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その場所に実際訪れて昭和23年9月23日の記事の写真と同じように撮ってみました。

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現在の有川桟橋は、隣に新たに埋め立てられた港町埠頭とくっついてしまっているのですが、海上自衛隊の艦船や大きなクルーズ客船などはこの港町埠頭に着岸します。

天城が繋留されていた場所からはちょうど有川桟橋を挟んで500mほどで、着岸した護衛艦も函館山も一目で見れる場所です。


あと一通り調べてからネットで見つけたのですが、すでに天城の場所について纏められている人が・・・

管理人:スズ氏 『大地の記憶』 - 「雲龍型航空母艦「天城」終焉の地に関する調査」


拙ブログよりも見やすく紹介されてますので、そちらの方もご覧になって下さい。



最後に、「艦これ」で「函館……何でだろう懐かしい響き……気のせいですね。」と言う天城だけど、浮き桟橋として連れて来られ、結局その役目は与えられずスクラップとして消えたこの函館では懐かしむだけのいい思い出は無かったと思う。

個人的には、実は有川桟橋のどこかで防波堤として眠っていて欲しいなと思ったりした。

あと、先代の関東大震災で被災した天城が現在も浮き桟橋として使われている一方で、三代目の天城が浮き桟橋に改造されて使われないままスクラップというのも皮肉なものだなと・・・


(参考文献)
・函館新聞 昭和23年2月11日、昭和23年8月20.21日、昭和23年9月23日、昭和23年11月20日
・北海道新聞 昭和23年2月11日、昭和23年8月22日、昭和24年11月28日、昭和25年8月20日
・坂本幸四郎 「青函連絡船ものがたり」(朝日新聞社、1987年)
・秋吉秀康 「旧海軍航空母艦「天城」の艦体利用のポンツーン」
 
 
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