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「咲-Saki-」舞台探訪 青森県代表・千曳学園編

「咲-Saki-」におけるインターハイ青森県代表の千曳学園は、根獅子女子(長崎)・富之尾(滋賀)・越谷女子(埼玉)と対戦して初戦敗退してしまっているので名前くらいしか登場していませんが、地名から青森県の東部、東北町の千曳(ちびき)にある設定なのだろうということで、大湊で行われた艦これオンリーイベント『砲雷撃戦よーい 八戦目』に行った後に行ってきました。


・上北郡東北町

東北町は平成の大合併で旧東北町と上北町が合併してできた町で、北に野辺地町、南に七戸町、東には小川原湖に面しています。

設定上、千曳学園があると思われる千曳は国道4号を野辺地町から南下し、東北町に入ると千曳と呼ばれている地域になります。

ただ現在の住所上では千曳小学校や千曳バス停などがあるのは千曳ではなく、千曳駅の東側一帯が千曳という字名になるようだ。


国道4号沿いに十和田観光電鉄バスが運行する千曳バス停がありました。

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「国道4号線沿いにある千曳バス停。ここから少し南下すると日本中央の碑保存館がある。」

この国道4号から東側に入ると住宅が立ち並ぶ集落となっていて、千曳の名前が付くものとしては千曳駅、千曳小学校、千曳簡易郵便局、千曳駐在所、ちびき病院などがあります。

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「千曳小学校がある千曳集落内を通る県道8号線。(旧奥州街道・国道4号線?)」

とりあえず学校ということで千曳小学校に行きました。


より大きな地図で 「咲 -Saki-」舞台探訪マップ - 咲に登場しない学校など を表示


1)千曳小学校

まぁ背景で登場するどころか千曳学園は敗退してしまっているので舞台探訪にもなっていないのだけれど、千曳にある学校はこの千曳小学校しかありませんでした。

というわけでそそくさと撮影して撤収。

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2)千曳駅

千曳集落から県道8号線を東北町役場のある乙供方面へ約2km程走ると青い森鉄道の千曳駅があります。

というか跨線橋の下を通る線路上にある無人駅で、近くに標識もないので普通に走ってると気付かずに通過してしまう上に、人家のない山の中にある駅なので非常にわかりづらい。

さらに市街地からのアクセスも悪いので、一日平均何人位の利用者が居るのかという場所にあります。

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なんというか、2面2線の駅なんですが、駅構内で反対側へ渡る踏切や歩道橋が無いため、もし反対側に行くには駅の上を通ってる県道8号線に一度上がって線路をわたってから反対側へ降りていくという不便な駅です。

しかも、写真から分かるように道路から駅に向かう道が上り下りで分かれている上に直接車を乗り入れることができないという…。

とりあえず県道沿いに車が止められるスペース(駐車場では無いのかもしれない)があるのでそこに停めてから行くことができました。

1時間に1本普通列車は停まるようなので(上り18本、下り18本)、もしかすると千曳学園の生徒はここから上京した可能性も…。

学校の車で直接、七戸十和田駅か新八戸駅に行ったほうが手っ取り早そうな気がしますが。

ちなみに、かつての東北本線は現在の千曳駅の少し八戸側で西に、川に沿って北西へ、千曳の先で現在の国道4号線の少し東側を沿うように北上し、野辺地町一ノ渡の現在の東北本線となっていたようだ。

旧・千曳駅(南部縦貫鉄道線・西千曳駅)も千曳集落の国道4号線と県道8号線間辺りにあって、駅跡地は町民バスのバス停が近くにあったりします。


あと近くにある物でむりやりネタになりそうなものを探すとすれば、「日本中央の碑」とか「東北温泉」くらいかな…

3)日本中央の碑

千曳バス停から国道4号を南下すると上北自動車学校のすぐ右手に日本中央の碑保存館があります。

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十二世紀中頃の歌人・西行法師の「みちのくの 奥床しくぞ 思ほゆる 壷のいしぶみ そとの浜風」をはじめ、古くから色々な歌人がみちのくの何処かにあるらしい「つぼのいしぶみ」について詠んだ歌があり、その「つぼのいしぶみ」だと言われているものの一つがこの「日本中央の碑」。

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「日本中央の碑(実物)」

征夷大将軍・坂上田村麻呂が彫ったという伝説のある碑で、千曳という地名の由来でもあります。

詳しくは保存館内部にあった説明文をここに載せておきます。

東北町指定有形文化財 (平成元年十二月七日指定第一号)
日本中央の碑 (つぼのいしぶみの由来)

 この日本中央の碑は、昭和二十四年六月二十一日、当町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で、千曳の川村種吉氏により発見された。
 古歌に詠まれた名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「つぼのいしぶみ」ほど、好事家の話題にのぼったものはない。
 このつぼのいしぶみを始めて解説したのは、歌学者の顕昭(西暦一一三〇年頃~一二一〇年頃)である。その著『袖中抄』に、

(前略) 顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り、日本のはてと云り、但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書き付けたれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。 (後略)

と書かれている。但し、田村麻呂の陸奥下向は盛岡市近辺の志波城までであってそれより北に及んでいない。
 田村麻呂に続いて、征夷将軍となったのは文室綿麻呂である。綿麻呂は弘仁二年(八一一年)に都母村に進撃している。『袖中抄』に書かれている事を当てはめるならば、石に日本中央の文字を刻んだのは綿麻呂ということになるであろう。
 なお、「日本中央」の「日本」は、ひのもとを訓じて東北地方を指す言葉であったと思われ、そこから先は中央政府の支配の及ばない地、それが日本であり、政府の威令が浸透するとともに、日本の地域もしだいに、狭められる事になる。従って、この「いしぶみ」は東北の古代史を物語るものである。

平成七年四月 東北町教育委員会


この碑が建てられたされる平安時代初期は、まだ現在の東北地方の津軽・都母・爾薩体・弊伊の蝦夷は大和政権に服属していなかったため、征夷将軍として坂上田村麻呂や文室綿麻呂がここまで遠征していました。

現在の千曳の南にある七戸町(旧・天間林村)に坪という地名が残っており、「都母」はこのあたりにあったと考えられています。(異説もあり。ちなみに爾薩体は岩手県二戸市仁左平、弊伊は閉伊川の流れる岩手県宮古市・閉伊郡にあったと考えられる。)

そのことから「都母の石文=つぼのいしぶみ」と言われています。

千曳の南、旧・天間林村菩提木(上のマップの鳥居の場所)に鎮座する千曳神社には、1000人の人間で石碑を引っぱり神社の地中に埋めたという伝説が残っており、明治9年(1876)に、明治天皇の行幸に合わせて石碑を発掘するように政府から命令が下ったものの結果として石碑を発掘することはできなかったという。

現在保存館に展示している碑は昭和24年(1949年)に、千曳に住む川村種吉氏が、千曳から乙供へ向かう県道8号線の途中の千曳集落と石文集落の間に落ちていた巨石をひっくり返してみると、「日本中央」という文面が彫られていたらしい。(県道8号線の千曳駅を過ぎて少し走った道路沿い右手に発見場所の看板がある。)

そんな経緯のある日本中央の碑ですが、実物を見ると彫られている文体がすごく最近な書体で率直に言って怪しい…

とはいえ、元々が鏃で削って彫った文という事だし、拓本を取る前に表面を必要以上に掃除しすぎて彫られていた文が見づらくなったという話も。

ただ、咲に登場する人達の能力という面では何か「つぼのいしぶみ」の話関係での能力は使われてもいいのかなと思ったりしました。


4)東北温泉

あとは小林立先生が温泉好きという所から、「日本で一番黒い」という東北温泉をとりあえず紹介しておきますか…

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千曳から県道8号線を走ると東北町役場や東北温泉のある乙供に着きます。

黒いというのはお湯が黒いという事で、泥炭層を通って湧き出すモール泉です。実際には真っ黒という黒さではなく、東北温泉のは薄く淹れたコーヒーのような色。

もしかすると黒さが変動するのかもしれないけど、北海道恵庭市のモール泉の方が黒く感じました。

ただ日本一黒いという認定を受けていることもあって「黒」推しの温泉であります。東北温泉の黒い饅頭も売ってたり。
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